1978年の最長片道切符の旅  第39日 隼人→枕崎 2005/02/26

前書き

今日で最終回となる。本来であれば2004年中に終わらせる予定だったのだが、伯耆大山での貨物列車脱線事故でそれが難しくなり、そうであればと、先達の命日を最終回の日に選んだ。今回にマイレージを使うので、九州までの交通費はただである。羽田空港から鹿児島空港まで。1日1便しかない、空港から隼人駅前に立ち寄るバスを見つけたのでそれに乗る。隼人で枕崎行きの片道乗車券、2420円を購入した。

本編

隼人(11:27)→鹿児島中央(12:02) 9783M

国分から来た列車で座席の大部分が埋まっていた。ドアの近くにある折り畳みの椅子に座る。これから鹿児島に向けてどんどん乗客が増えていくのではないかと思ったが、意外と途中から乗ってくる人は少なかった。

姶良を過ぎると、錦江湾、その向こうに桜島が見えるようになる。どうしても海側に目がいくが、山側を見ると、確かに崖になっていてそこが木に覆われている。竜ヶ水まで来ると桜島に手が届きそうだ。「災害復旧記念碑」が建っていた。1993年にこの場所で土石流による事故が発生している。

海上には桜島フェリーが浮かんでいる。進行方向に目を進めると鹿児島の街。磯庭園の近くを過ぎる。冬の磯でウィンドサーフィンをしている人がいた。ここまで来ると鹿児島はすぐだ。一部分は駐車場になってしまっているが、広い構内には風格を感じる。ここで三分の一くらいの人が降りていった。観覧車が見えると、終点鹿児島中央も近い。当時は西鹿児島という駅名だったが、新幹線の開業とともに駅名が改められている。

鹿児島中央(12:49)→指宿(13:41) 4237D 特別快速[なのはなDX103号]

[なのはなDX103号]に乗る。自由席が2両、指定席が1両。デラックスというわりには古い車両だと思ったら、指定席がデラックスのようだ。自由席は観光客よりも地元客のほうが多かった。大部分の座席が埋まる。坂之上までは郡元以外の各駅に停まる。駅を過ぎるたびに人が降りていく。坂之上までで大部分の人が降りていった。指宿行き快速とはいえ、そういう需要なのだろう。坂之上からは快速らしく、喜入と指宿にしか停まらない。左手には桜島と大隅半島が見える。一ヶ月前はそこを北に向かっていたのだ。

菜の花が咲いていた喜入を経て指宿に到着。指宿駅は観光地の玄関口といった趣なのだが、肝心の街を歩いてみるとそれほど観光地であることを感じない。「今度こそ どうしても 観光都市指宿の再生を!」と書かれた立て看板があったくらいの、一時期と比べると廃れてしまっているようだ。市営元湯に入ってみる。今日は26日でフロの日ということで無料で入れた。温泉に好んで入っていた氏の命日しがフロの日だとは巡り合わせだろうか。

指宿(16:55)→枕崎(18:04) 5327D

とうとう、長かったこの旅も最後の列車となってしまった。各駅停車枕崎行き。2両編成。満員にはほど遠い乗客だった。山川でも多少乗ってきたが、乗車率は30%くらいだった。

少しすると開聞岳が見える。頂の方は雲に覆われているが、その上のほうに少し切れ間があって陽の光がもれて、まるで光の帯が山にまとっているようだった。それが見えたのは一瞬だった。開聞岳は薩摩富士の名に恥じない、いい形の山だ。

西大山はかつては日本最南端の駅で、今でもJRの中では最南端である。マニアっぽい人がカメラでその碑を撮っていた。開聞岳が間近にはっきりと見える。

西頴娃で降りていく人が多い。簡易委託駅とのことだが、遠くから見た様子だと駅員がいないように見えた。もっとも、終点の枕崎も今では無人駅になっている。石垣を過ぎると今まで雲に隠れていた太陽がはっきりと表に現れた。広尾で見た太陽を思い出す。その太陽も徐々に下へと落ちつつある。薩摩板敷を過ぎてトンネルを抜けると枕崎の街が見えてきた。家が並んでいて大きな街だ。そうして終点枕崎に到着。

後書き

この日は枕崎に泊まり、近くのスーパーで鰹やら総菜やらを買って一人で祝宴を開いた。長かった旅が終わった。


初出 : 2005/09/11
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