1978年の最長片道切符の旅  第8日 好摩→羽後本荘 2004/06/19

前書き

前日に東京から夜行バスに乗り、この日に盛岡に入る。バスを降りたのは岩手飯岡駅に近い、岩手県交通の盛岡南営業所。ここからJRとIGRいわて銀河鉄道を乗り継いで、好摩に戻ってきた。今日から二日間、好摩から花輪、奥羽、五能、奥羽、羽越、米坂、奥羽、北上、東北新幹線、埼京、武蔵野線経由で北朝霞まで、という片道切符を使う。この切符を発券してもらうにもけっこう時間がかかった。

本編

好摩(7:21)→大館(9:59) 1927D

盛岡から来た大館行きの普通列車に乗る。好摩駅の駅舎で高校生が多数待っていたが、この列車には誰一人として乗らなかった。一般の乗客が五人くらい乗る。外見から判断すると国鉄時代から走っているような車両である。もっとも、内装は新しくなっている。ここまでIGRいわて銀河鉄道を走ってきたわけだが、好摩から大館まではJRの区間になる。

好摩を過ぎると、苗が植わっている田んぼが見える。日本の原風景だと思う。もっとも、三脚を構えてこちらと対峙している人を見たときは、その風景との不調和を感じたが。ただ、さすがにこのあたりでは藁葺屋根は見えなかった。大更のあたりで頂が雲に覆われた山が見えた。あれが岩手山であろうか。

大更では盛岡行きの列車と交換する。反対側のホームには高校生を中心に多くの人が列車を待っていた。やがて、3両編成の列車がやってきた。確かに田んぼが多いが、沿線には人家も多く、それなりに利用客は多いのだろう。鉄道が通っている理はありそうだ。

当時は岩手松尾という駅名だった松尾八幡平からは人里を離れ、森の中に入っていく。花輪線には松尾八幡平の他に八幡平という駅もあって、紛らわしい。わざわざ改名したのは、地元の要望があったのだろうか。単線だから右も左も木々で、それをかきわけて進んでいく感じである。そういうよろしい景観なのだが、乗客の数がすごぶる少ない。安比高原を過ぎた時点では、二両に三人しか乗客がいないようだった。その安比高原は当時は龍ヶ森という駅名だった。確かに高原の駅で、ペンションなどがあるようだが、近くに人は住んでいなさそうだ。

高原を下がっていくと、赤坂田に着く。ここで一人乗ってきた。この駅の近くには藁葺屋根があった。みちのくの奥まで来ると、鉄道が通っている近くにもまだあるものなのか。ここから安代町に入っていて、その中心である荒屋新町では盛岡行きの列車と交換するために、5分停車した。荒屋新町を過ぎて横内からはまた木に囲まれる。小さなトンネルを抜けたのでここが県境かとも思ったが、まだ県境には達していない。ただ、次の田山で多くの人が乗ってきた。兄畑を過ぎてようやく秋田県に入る。

秋田県に入って最初の駅が湯瀬温泉である。遠くから高層建築の建物が見えて確かに目立つが、それほど大きな温泉街ではない。峡谷を走っていき、八幡平でまわりが開けてくる。ここまでちょこちょこと人が乗ってきて乗客はそこそこ多くなっていたが、鹿角花輪で私が乗っていた車両では、私以外の全乗客が降りてしまった。まるでこの駅が終点みたいだ。代わりに何人か乗ってきて、この列車は間違えなく先に進む。更に北に進むと十和田南で、この駅で進行方向が変わる。8分停車。雨が激しく降っていた。

米代川を左手に臨む。だいぶ川幅も広い。大滝温泉という駅があるが、どこの温泉があるかわからなかった。駅の北側にあるらしい。多少の乗降があった東大館を経て、大館に着。

大館(10:03)→弘前(10:49) 8641M

大館からの弘前行きは花輪線の車内で臨時列車と案内されたのでそうだったっけ?と思っていたのだが、後から調べると「9月30日まで運転」だった。花輪線の到着ホームの向かい側に既に停まっていた。3両編成のオールロングシートだった。空いていた後ろの車両に座る。

県境に向けて峠にさしかかる。雲が煙のように立ちこめて森の緑を隠している。矢立峠をトンネルで抜けると青森県に入る。青森県に入って平野部に入ると、りんごの木が多く見られる。当然、まだ実はつけていない。大鰐温泉では弘南鉄道が寄り添っている。この弘南鉄道は石川の手前でこちらをまたいで東から西へと抜けていく。

途中の駅で人が乗ってきたが、降りていった人は見かけなかった。そういうように人が集まっている弘前に到着。弘前駅は工事中だった。

弘前(11:17)→陸奥森田(12:18) 828D

弘前からは五能線でまず深浦まで行くのだが、深浦まで行く列車までは随分時間がある。途中の鰺ヶ沢まで行く列車がその前にあるので、それに乗って途中下車することにする。その列車は2両編成で、席はけっこう埋まっていた。だいたいの人が進行方向と逆に座っていたので、それに倣う。座っている方向と逆に進むこと10分弱。川部駅の手前で右から線路が延びているのが見える。川部で進行方向を変え、今度は右に見えていた線路を走っていく。

りんごの木は見えるが、実がなっていないとそれほど興味をひかれない。岩木山もかなりかすんで見える。板柳では普通列車の弘前行きと交換する。降りる人いるのだが、乗る人も高校生を中心にいて、乗客数は一定を保ったままだ。弘前から47分で五所川原に到着。この駅で降りる人が多く、乗客数が激減した。駅前を見る限りではそれほど活気があるとも思えないが、五能線の中では活気があるほうだろう。この五所川原で[リゾートしらかみ]と交換する。旗を持ったツアーコンダクターについていく団体客が降りてきた。

五所川原の次が木造で、ここは有人駅だった。駅舎が竪穴式住居風だったり、駅前に古い歯科医院があったり、思わぬ特徴を持った駅だった。その次の次の陸奥森田で下車する。私の他に数人が降りた。小雨の中を歩いて、おらほの湯という森田村の温泉施設に行った。公営施設にしては珍しい純天然温泉のようである。その後、村でも数少ないと思われる食堂で冷やし中華を食べた。

陸奥森田(14:01)→深浦(15:19) 2830D

陸奥森田から深浦行きの列車に乗る。ここでは私の他に誰も乗らなかった。四両編成だったが、いちばん後ろの車両は回送扱いのようだった。空いている三両目に乗ったのだが、鰺ヶ沢で後ろ二両を切り離すとのこと。とりあえず、鰺ヶ沢まではここに乗ることにする。鰺ヶ沢の手前で日本海が見えた。

さて、鰺ヶ沢では席を移らなければならない。どうせならば海側の席に座りたいが、山側の席はけっこう空いているのに、海側の席はだいたい誰か乗っている。高校生が一人でちょこんと座っていたりして、毎日見ているだろ、と心の中で思いつつも、やっと空いている席を見つけたのでそこに座った。見たところ、七割方は地元の人のようだ。鰺ヶ沢では8分間停車する。

鰺ヶ沢を出て少しすると高みの上から海を見下ろす。そこからだんだん高度を下げていき、海が目の高さで見えるようになる。もっとも、海の間際を走っているわけではなく、道路と住宅が間に挟まっていることにはなっている。

北金ヶ沢のあたりで雨が強く振ってきた。景勝地である千畳敷も豪雨の中だった。ここで二人が乗ってきたが、かなりたいへんそうだ。ツアーの旅行客がコンダクターに傘をさしてもらいつつ、建物に横付けされたバスに乗り込んでいた。風合瀬の手前で「かそせいか焼きむら」という看板を見たが、この雨ではいかを焼いている場合ではない。

「原典」では平仮名とローマ字だけだったという「驫木」の駅名標は漢字で書かれていた。馬が三匹いた。このあたりでは海が至近距離に見えた。追良瀬、広戸と経て、終点深浦に到着。

深浦(15:43)→東能代(17:25) 328D

深浦駅は雨の中だった。7年前にここに来たときも雨の中だった。ホームにある小さな待合室は人でいっぱいだった。私と同じ東能代行きに乗る人かと思ったら、大半が秋田方面から来たリゾートしらかみに乗っていった。東能代行きに乗ったのは十数人だった。

少しして艫作に到着。ここで女性のグループが降り、駅前に停まっていた不老不死温泉の送迎バスに乗っていった。次が新しくできたウェスパ椿山。別世界に来たような瀟洒な建物が建っていた。ここにも不老不死温泉の送迎バスが停まっていた。ここでは降りた人はいたが、乗る人はいなかった。どんどん乗客が減っていく。

青森県側最後の村である岩崎村に入る。海と山に挟まれた猫の額のような土地に家が密集している。陸奥岩崎駅に到着。岩崎村の中心地だからか駅舎は大きいようだった。次が十二湖。実際の湖は少し山の中に入ったところにある。松神で一人乗ってきて、次が白神岳登山口。陸奥黒崎を改称したものである。しかし、駅名に反して登山口がどこにあるかわからない。駅を発して少ししたところに登山口はあったが、かなり目立たない。改称することはなかったのではと思う。青森県最後の駅である大間越で二人くらい降りていった。車内はかなり空いている。

あきた白神という駅に停まる。ここは、ハタハタ館という建物と連絡橋でつながっていた。ここで二人が乗ってくる。八森を過ぎると、いよいよ日本海と遠ざかる。能代平野を走り抜け、米代川を渡ると能代の街に入る。今までは客も少なく静寂な車内だったのだが、能代で高校生が多数乗車して、その静寂が破られる。最後の一駅だから別にかまわない、と思って終点東能代を迎える。終点に着いたのだが、高校生の多くが降りない。この列車は折り返して鰺ヶ沢行きになるのでそのまま乗っているようだ。この駅が終点ではないような錯覚に陥った。地方だから大目に見ているのかもしれないが、細かい規則と照らし合わせると問題があるような。

東能代(17:28)→秋田(18:17) 2046M 特急[かもしか6号]

東能代からは特急に乗って秋田まで急ぐ。一部グリーン車の自由席車両である1号車に乗る。全部合わせて3両編成の短い特急だが、空いていた。鹿渡のあたりから見えるのが大潟村である。日本でいちばん第一次産業に従事する人の割合が多い市町村だが、そういう特徴が垣間見られた。八郎潟で青森行きの[かもしか]とすれ違う。

通過する追分で男鹿線と合流。しばらくして終点秋田に到着。それにしても、東能代から一度も車内改札をしなかった。東能代を出てすぐに車掌が「散歩」に来たが、そのときはこちらもばたばたしていて、車内精算どころではなかった。もう一度まわってきたときに、と思ったのだが、秋田まで車掌は来ない。これでは特急料金を取りっぱぐれてしまうではないか。怠慢だなぁと思いつつも、仕方がないので駅で精算した。

秋田(18:38)→羽後本荘(19:28) 554M

秋田始発の酒田行きはオールロングシートの3両編成だった。乗車率は80%くらいか。すぐ前に新屋行きの列車が行ったばかりだったのだが、その新屋で降りる人が多かった。この列車は桂根に停まる。普通列車でも停車するよりも通過する列車が多いという駅で注目をしていたのだが、ここで乗降する人はいなかった。

道川と岩城みなとの間にある神社ではお祭りをしていた。神社の下にある場所では出店が集まっていた賑やかそうだ。二古信号場で三分停車。特急[いなほ]とすれ違う。空と同化した海の手前に枯れた木が見える。もうあたりもだいぶ暗くなってきた。乗客の数も減ってくる。羽後岩屋の手前あたりで車内改札があった。車内改札について遺憾に思った直後のタイミング。中途半端に長い片道切符を差し出す。

秋田から50分で羽後本荘に到着。今日はここで泊まる。降りる人は多かったが、乗る人もいたし、乗っている人もいた。

後書き

この日は羽後本荘の駅前のビジネスホテルで泊まった。秋田で買っておいた駅弁を夕食として食べる。


初出 : 2004/08/19
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