1978年の最長片道切符の旅  第9日 羽後本荘→横手 2004/06/20

前書き

5時半過ぎにホテルを出るために、4時半過ぎに起床する。

本編

羽後本荘(5:42)→酒田(6:47) 522M

羽後本荘始発の酒田行きに乗る。この列車に乗るために、昨日のうちに羽後本荘まで来る必要があった。2両編成で乗客は二人。さすがに、こんなに朝早くから列車に乗る人は稀なのだろう。ワンマンカーとなっていたが、後ろにJRの職員はいた。今日も天気が悪く景色もはっきりと見えない。道中、北へ急ぐ寝台列車や貨物列車とすれ違う。

秋田県側からは誰も乗ってこない。回送列車みたいだ。山形県に入って、女鹿に停車。この駅も停車する列車の本数が少ない駅だ。駅のまわりは草木しかなかったが、海側には集落があるようだ。吹浦あたりから人が乗ってくる。結局乗ったのは八人くらい。日曜日の早朝だからこんなものか。先頭車両だけが扉が開くワンマンカーなので、後ろの車両には誰も来なかった。

酒田(6:52)→村上(8:10) 2004M 特急[いなほ4号]

酒田駅では、向かいのホームに今度乗る特急列車が待っていた。ホームには立ち売りの駅弁屋さんがいるではないか。朝食はまだだったので、喜々として駅弁を買う。最近できたというきらきらうえつ弁当を買った。内容は少し豪華な幕の内といったところか。水田を見ながら米を食うという贅沢。パンや麺類を嫌っているわけではないが、やはり日本人と米との関係の深さは軽視できないだろう。

余目、酒田と客を拾っていく。偶然なのか必然なのかはわからないが、海側のほうに集中して座っている。かくいう私も海側に座った。これは必然的にそうした。庄内平野から抜け出すといよいよ海が見えてくる。幾年にも渡って波に当たってきた岩がある傍に、波消しブロックが並んでいるというのはちょっと妙だ。山形県側最後の停車駅であるあつみ温泉はそれほど人が乗らなかった。温泉客が帰るにはまだ早い時間だろうか。温泉街は駅から少し山側に行ったところにある。

奥羽三関所の一つ、鼠ヶ関を越えると新潟県に入る。海に向かって釣りをしている人がいた。雨は降っていないようだ。新潟県最北の町、山北町の中心地である府屋に停車。何人か乗ってきた。新潟県に入ったからというわけではないだろうが、今川を過ぎたあたりで車内改札が行われる。私は先ほどこの車掌から自由席特急券を買ったので、改札は一瞬で終わる。

このあたりは笹川流れという名勝だが、トンネルが多いせいか、それほど景色がよいところだとは思わなかった。この名勝を堪能したければ、桑川で下車して遊覧船にでも乗れということか。ただ、特急は桑川には停まらない。ここからしばらくして村上に着。このまま坂町まで行ってもよかったのだが、時間があるので村上で降りた。降りるときに後ろの指定席車両を覗いたが、三人くらいの一団体しか乗っていなかった。

村上(8:52)→坂町(9:04) 930M

村上でしばらく待って始発の新潟行きに乗る。オールロングシートの4両編成。さすがに村上の時点ではこの編成は持て余し気味だ。この列車は坂町を経て、新発田、新潟へと至るが、私がこの旅で新潟に行くまでに盛岡、東京、豊橋を通っていく。

このあたりは米どころで、「匠がつくった岩船米ゲッツ」という、どんどん時代遅れになるであろう看板があった。駅ごとに客を増やしていく。坂町で乗ってきた人もそれなりにいたが、降りた人もけっこういた。坂町ではPHSが通じず、PHSを使った用事を村上で済ましておいたのは正解だった。

坂町(9:39)→米沢(11:48) 3822D 快速[べにばな2号]

新潟から来た快速[べにばな2号]に乗る。快速とはいっても新潟からここまでが快速なのであって、坂町から終点米沢までは各駅に停まる。そこそこ人が乗っていた。坂町を過ぎると荒川に沿って走る。雨が降ったせいか水量が多いように見える。しばらく行くと越後下関で、荒川峡温泉郷の玄関口である。数人が降りていった。駅員がいた。

越後金丸を過ぎると県境越えに入る。けっこう客が残っている。赤芝峡と呼ばれる峡谷沿いを走るわけだが、確かに荒天になると運行に影響がでそうな場所ではある。今は雨も降っていないので問題がない。越後金丸−小国間には、玉川口という駅があったが、1995年に花立駅とともに廃駅となっている。玉川という集落がこの南にあり、今は小国駅から町営バスが通じているようだ。

やがてあたりが開けてきたと思ったら、小国に着いた。人里稀な地を通って来た身としては、かなり大きい町に見える。小国を過ぎるとまた人家がまばらになってくる。

羽前椿で交換待ちのため5分停車。単線の米坂線に坂町から約1時間20分も乗ってきて初めての列車交換である。それだけ列車の本数が少ないということだ。羽前椿の次の次が今泉で、そのだいぶ手前で山形鉄道と合流する。川を渡って少しして今泉に着。十数人が乗ってきた。羽前小松は米沢近郊ということからか、新築の家が駅前に建っていた。こういう光景を見ると「街」に近づいてきたと思う。西米沢、南米沢と米沢の南側をぐるっと回って米沢に着。

米沢(12:14)→山形(13:03) 437M

米沢と言えば牛肉だ。駅弁にも「牛肉どまんなか」というものがある。私が買おうとするといつも売り切れだったのが、今日この駅弁を買うことができた。列車の中で食べようと思ったのだが、今度私が乗る山形行きは4両編成のロングシートだった。いちばん前の車両に乗って米沢を発車する前に弁当をたいらげる。米沢の時点ではそれほど乗客が少なかったのは幸いか。

高畠はかつては糠ノ目という駅名で、実際高畠町に編入されるまではこのあたりは糠野目村だった。よって高畠の町からは離れている。赤湯も赤湯の中心地からは少し離れていて、大正年間には赤湯駅と赤湯の温泉街を結ぶ人車軌道が運行されていたという。高畠、赤湯で乗ってくる人は多かった。赤湯を過ぎると山形鉄道が分岐していった。赤湯を過ぎると山の傾斜に広がるぶどう畑のビニールハウスが見える。「ぶどう狩」の看板もある。

右手にやたらと高い建物が見えるとかみのやま温泉が近い。この目立つ建造物は山形県で一番高い建物らしい。かみのやま温泉では高校生やら観光客やら一般客やらが大勢乗ってきた。それほど混んでいなかった車内が一気に埋まった。4両編成はこのためか。身分不相応な駅名と言われる蔵王であるが、蔵王村に近いということで付けられた名前といえば合点がいくような気がする。北陸本線の丸岡や寺井のようなものか。もっとも、蔵王村という名前自体は有名な山にあやかったものだろうが。ここでは先頭車両に多く乗ってきた。乗り換え階段が前のほうにあるためである。いっぱいの客を乗せて山形に着。

山形(13:32)→新庄(14:56) 1431M

次の新庄行き普通列車は山形止まりの列車の折り返しである。2両編成で、立つ人もいるような状態で山形に着いた。この新庄行きの列車に乗る人が多く立つ人もいた。この前に乗ったときにも感じたのだが、山形以北の普通列車はどうも虐げられているような気がする。高校生が多かった。北山形でもけっこう乗ってくる。ただ、以降は徐々に乗客は減り、特に天童では多数が降りていった。

このあたりからさくらんぼ畑が見えてくる。その名もさくらんぼ東根という駅が山形新幹線が延伸した折にできた。パークアンドライドで駅前には駐車場がある。ホームには東京行きの新幹線を待っている人がいた。次はただの東根。駅員もいないようだ。当時は優等列車も停まっていたのに、すっかりさくらんぼの方に東根市の玄関口の座を奪われてしまった。

村山を過ぎると平野が尽きて山間に入ってくる。大石田で高校生がだいたい下車。閑散といった状況になった。大石田が村山の北限と言ったところか。次に北大石田という駅もあるが、ここは当時は通過する普通列車もあったような駅である。その後も何人か降りていき、終点新庄まで乗っていたのは十人程度だった。

新庄(16:16)→横手(17:47) 2451M

新庄は大雨である。新幹線の開業を契機に新庄の駅は新しくなった。その中で所在なく過ごす。名物のくじらもちやラ・フランスのアイスクリームなどを食べた。20分以上前にホームに行ってみると今度乗る秋田行きの普通列車が停まっていた。さすがにその頃は乗客はいなかったが、発車間際になるとだいたいの座席が埋まった。

真室川は山形県側では最後の町と言っていい場所だが、ここまでで降りる人は少なかった。ほとんどの人が県境を越える人か。雨も激しく降っており、空と雲が入り交じって緑を隠している。及位は駅名が珍名ということで有名だが、駅そのものは山間の小駅だった。この駅を過ぎると秋田県に入る。

院内、横堀と経て、湯沢ではそこそこの客の入れ替わりがあった。[つばさ]を大曲まで延伸せよという看板が立っていた。もしかしたら東京から[つばさ]に新庄まで乗ってそこからこの列車に乗り換えて秋田県南部まで来た人がいたのかもしれない。それならば在来線の特急を走らせたほうがいいような気もするが、現在それすらないということは、それほどの需要はないということか。需要が掘り起こせるという観測もあるだろうが、ここに新幹線を作るくらいだったら他のほうが…、という気もする。湯沢からは20分ちょっとで横手に到着。今日はここでこの旅を終わる。

後書き

横手からは北上線で北上に行き、新幹線で帰路に着いた。ゆだ錦秋湖のあたりは大気に水分を含んでいたからか、幻想的な景色を見ることができた。和賀仙人という駅があるが、本当に仙人が出てきそうな感じだった。


初出 : 2004/08/29
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