昨日離れてから12時間後、再び我孫子に戻ってきた。今日も青春18きっぷを利用する。
成田行きの列車に乗る。成田空港から海外へと飛ぶのか、スーツケースを持った人を多く見かけた。10両編成を全て埋めるほどは混んでいない。
単線だが列車の本数が多いので、湖北で交換、新木で交換、木下で交換、小林で交換、といった具合である。木下は当時と比べればだいぶ宅地開発も進んだのであろう、水田のなかの小駅とは呼ぶには無理がある。小林でだいぶ座席も埋まってきた。そこそこ混雑した状態で、終点の成田に到着。
成田からは千葉から来た銚子行きの普通列車に乗る。6両編成。何かの試合があるらしく、そういういでたちの高校生が多数乗っていた。もし彼らが乗っていなかったら、かなり車内は空いていたであろう。成田では10分ほど停車して、その間に成田空港行きの快速を先に通した。
成田を過ぎるとすぐに田園風景に入る。次の久住では、久住駅前ニュータウンなるものを作っていたが、今になって駅前ニュータウンを作るくらいなので、まだまだまわりに家は少ない。久住、滑河と普通列車と交換する。単線だが列車の本数は多い。下総神崎では特急[すいごう]と交換。ぱっと見た感じでは乗客は少なかった。
佐原では、高校生が大量に降りていった。土曜日ではあるが、部活動で高校に通っているようだ。私と同じ車両に乗っている高校生はここでは降りずに、小見川で降りていった。ここであたりを見渡すと、私の他にもう一人しか乗客がいなかった。下総豊里のあたりで少しではあるが利根川が見える。こういう小駅でも降りる人はいた。しばらくすると松岸に到着。ここで降りる。降りるときに確認したのだが、他の車両にはそれなりに乗客は乗っていた。松岸駅は無人駅かと思ったのだが、ちゃんと駅員がいた。次の列車まで少し時間があるので、駅前の店でパンを買い込む。
八日市場まわりの千葉行きに乗る。銚子から乗ってくる人はそれほど多くなく、車内は空いていた。
猿田で特急[しおさい1号]と交換する。乗客はそこそこいた。猿田、倉橋と人里稀な場所だったが、次の飯岡は海上町の中心地であり、けっこう人が乗ってきた。旭、八日市場、横芝と大きな街に停まるたびに乗客が増えてくる。横芝駅に立てられていた看板には以下のことが書かれていた。「総武本線の複線化を力を合わせて推進しましょう」「芝山鉄道の延伸を実現しましょう」。
成東に近づく頃、遠くに高層マンションが見えた。ただ、駅前の様子は数年前に来たときに比べるとそれほど変わりがないようだ。成東でこの列車を待っている人は多かった。私は降りる。
普通列車の東金線経由の千葉行きに乗る。0番線からの発車である。千葉に行くには総武本線を経由していたほうが早いからか、この列車に成東から乗る人は多くない。次の求名ではそこそこの乗車。東金で乗ってくる人は多かった。福俵は周辺の人口が少ないのか、それほど乗ってくる人はいない。駅前に新興住宅はできていたが。私は次の大網で下車するが、この列車は千葉行きである。ところが、大網で20分停車するのでお急ぎの方は快速に乗り換えるように、という放送が流れた。快速といっても本千葉以外は各駅に停車する。こういう状況で20分待つという酔狂な乗客は少なく、ほとんどの人が大網でこの列車を降り、添い遂げる人は極めて少数だった。
大網では時間があると思い、トイレに行っていたりしてゆっくりとホームへと行ったら、今まさに列車が発車していったところだった。おかしいと思って確認したら、遅れていた快速の上総一ノ宮行きだった。
次に来る普通列車の安房鴨川行きは定刻に来た。ボックスシートが埋まっていたので、二人がけのロングシートに腰を下ろす。松岸で買っておいたパンを食べる。
本納で特急列車の通過待ちで6分停車。次の新茂原では新しさを感じなかったが、その次の茂原は駅も高架で背が高い建物も多い。上総一ノ宮は先行していた快速列車の終着駅だが、見た目ではそれほど利用客が多くなさそうな駅だった。
浪花のあたりで、海側のボックスシートが空いていたのを見つけたのでそちらに席を移す。御宿ではやや場違いと思われる高層マンションが建っていた。リゾートマンションというやつか。ここで降りた人は多かった。次の勝浦でも降りる人が多い。コマーシャルで有名なホテルが建っていた。海がはっきり見えて、海水浴客で賑わっていた。今日は絶好の海水浴日和だ。次の鵜原でも何人か降りる。やはり、駅の近くの海水浴場は海水浴客で賑わっていた。上総興津では特急列車の交換待ちのために5分停車。行川アイランドは駅の前には閉園となった行川アイランドしかないが、近くに集落がある。降りる人も何人かいた。次は安房小湊。上総から安房へと国境を越えたことになる。五井から発している小湊鐵道はこの小湊を目指していた。現在の終着地である上総中野の方角を見ると青い山が立ちはだかっていた。ここでもリゾートマンションらしき建物が目立っていた。 鴨川の街が見えると、すぐに終点安房鴨川に到着。
千葉行きの普通列車に乗る。乗り換える人は多かったが、4両編成から6両編成への乗り換えなので、席が埋まるという心配はいらない。ただ、乗り換え時間が短く、写真を撮ってトイレに行って跨線橋を渡って乗り換えとなると、余裕がほとんどなかった。ホームで駅弁を売っていた。
海水浴シーズンだからか、どの駅にも駅係員がいるようで、江見では私服を着て名札をつけた人が出札業務をしていた。駅から離れたろころに場違いな高層マンションを見かける。まわりは畑だ。バブル景気の頃に建てられたものだろうか。
千倉ではJRバスの乗換駅であるということが案内された。千倉から外房から内房へと移るために、右も左も山の中という場所を突っ切っていく。交換待ちのために数分間停車した九重を過ぎると館山に到着する。ここでもJRバスの乗り換え案内の放送が流れた。多少は乗る人がいるが、それよりも次の特急列車を待っている人が多い。
列車は内房に入り北上、やがて鋸山をトンネルでくぐり、浜金谷に到着。ここで続行の特急列車に抜かされる。進行方向の逆側を見れば、鋸山がきれいに見える。そう言われると確かに鋸っぽい。
しばらくは国道127号線と並行して走っているのだが、竹岡と上総湊の間では、遊びにきたと思われる車の列で渋滞になっていた。ノロノロ運転の車のナンバープレートを見れば、関東各地から集まってきていることがわかる。佐貫町の手前では山の上に巨大な観音像が見えた。何かと思えば、東京湾観音という観音像らしい。こちらが北に移るにつれ、観音像の前から背に回ることになる。
君津に近づくと、海岸線が工業化してくる。君津、木更津と人の乗り降りが多い。巌根の駅には「潮干狩の皆様いらっしゃいませ」と書かれた幕があったが、あれは一年中掲げてあるのだろうか。千葉に近づくにつれじわじわと乗客が増えてくると思っていたら、蘇我で降りていく人が多かった。京葉線に乗り換えるのだろうか、当時は京葉線は存在しなかった。当然降りない。左側に京成電鉄の線路が見えてくると、千葉ももう近い。そして、終点千葉に到着。
千葉からは黄色い総武緩行線に乗る。三鷹行き。千葉の時点では拍子抜けするほどに空いていた。ただし、だんだん人が乗ってくる。幕張本郷で成田エキスプレスが東京方面に駆け抜けていったが、複々線なので緩行線は影響を受けない。マイペースに25分進んで、西船橋に到着。ここで降りる。
西船橋で武蔵野線に乗り換える。武蔵野線のこの区間は1978年10月2日に開通している。当時は開業したてということになるが、26年間経った今となっては年月が経っていることは否めない。それでも、私よりは少しだけ若いのだが。
空席はないことはなかったが、短い乗車時間なので立って乗る。確かに規格はいい。このあたりも当時に比べると、住宅も格段に増えたのだろう。
新松戸からは常磐緩行線に乗る。代々木上原行き。とりあえず座ることができた。松戸までは3駅だが、停車する各駅での乗降客が多かった。
松戸で常磐快速線に乗り換える。
江戸川を渡ると東京都に入る。金町、亀有、綾瀬と飛ばして、荒川を渡って北千住に到着。建設中の常磐新線が見える。常磐新線は南千住の手前で地下に潜っていった。南千住、三河島に停車して、次は日暮里。ここで大部分の人が降りていった。上野まで行く人は少ない。「原典」では長々と説明されている「尾久問題」だが、私はただ跡を辿るだけなので、何の迷いもなく上野まで行った。
間に合わないと思った普通高崎行きであるが、発車時間が遅れたらしく乗ることができた。上り列車遅れの影響で2分遅れという放送が流れた。乗客も少なく、ぎりぎりで乗ってもゆうゆう座ることができた。尾久を経て、赤羽で降りる。ここで乗る人もあまりいなかったようだ。
大船行き。座れた。王子までは先ほど来た道を逆戻りする形になる。王子停車中に都電電停のほうを見ると、荒川方面に向かって電車が走っていった。更に逆のほうを見れば、寝台特急[北斗星]が通過していくではないか。今こんな「旅」をしている身としては、思わず嘆息してしまう。田端で列車を降りる。
田端で山手線に乗り換える。混雑していて座れない。進行方向左側の扉に寄りかかる。この扉は池袋まで開くことはない。疲れがかなり溜まってきた。新宿まで行こうかとも思ったが、自宅に帰るのに便利な池袋で今日は終わりにする。池袋で降りて、定食屋に駆け込んでビールを飲んだ。
2日連続で早起きしてあちこち回ったこともあってか、だいぶ疲れた。